「流行」という概念は今も存在しているか①

「安心してください、ブログ続けます」

…ということで、2015年の「新語・流行語大賞」が発表されました。

広報業界にいると、どうしてもこの流行語というものが気になってしまい、つい毎年チェックしてしまうのですが、毎年、その結果にものすごく脱力しています。まず一年を総括するにはあまりに知らない言葉が多すぎるからで、それはただ流行に鈍感ということなのか、本当に大して流行してもいない言葉が選ばれているのか、いずれにしても納得感がないからです。

しかしそれ以上に感じるのは、もはやこの現代において「流行」という概念にどれほどの意味や価値があるのだろう? ということです。「流行している」と判断したり感じられるのは、皆が同じものを見て、聞いて、体験したり、知っていたりするからです。しかし、人々の生活や考え方が多様化する現在において、いまだそのような大多数の共通認識ともいえる「流行」という概念は存在し得ているのでしょうか(インフルエンザが大流行、などというのは別として)。

まず大前提として、現代において「流行している」という言葉を発する時、皆さんはもはや無意識下に「私たちの間で…」と言ってはいないでしょうか? 昔であれば、クラス中の女子が同じ髪型をしてみたり、皆が同じゲーム機を持っていたり、原宿がファッションの流行の発信地と言われたりしていましたが、いずれも今や消滅している概念です。「スマホは流行したのでは?」と言われるかもしれませんが、スマホは必要だから皆が持つことになったデバイスというだけで、パソコンやインターネットと同様に流行り廃りの廃りが当面訪れない以上、流行という概念でくくれないのでは、というのが持論です。

ではなぜ流行という概念が消滅しかかっているかといえば、このブログで指摘するまでもなく、お隣さんが○○を買ったからうちも買いましょ! と見栄を張ることももはや意味がなく、さらにSNSの浸透なども手伝って、趣味や好みや思考は人と同じである必要がない、それぞれに細分化していて全然OK! という社会に(だいぶ前から)なっているからです。というより、同じものを買っている方がダサいので、見栄を張るためにあえて違うものを買うというか…。児童の間で今でもアナ雪やジバニャン(=妖怪ウォッチ)などが大流行するのは、おそらくそのような自我(見栄の意識)がまだ発達しきれていないから、と推測されるわけですが、大人の世界では、もはや広く日本中の誰しもに流行っているという「こと・モノ」はなくなっているように思えます。よって「流行っている」という現象について話す時でもせいぜい、私の仲間内で、とか、同じコミュニティ内で、という狭い世界での現象であるとの前提を入れるしかなくなっていて、それが現代における「流行の範囲」と断定しても差し支えない状況になっています。

そのような状況下で、言葉だけが「流行」の概念に乗っかっていられるなどということは、もちろん「ない」と想定されます。いえ、新しい言葉や言葉の新しい使い方というものは、間断なく生まれています。しかしそもそも、新語とか流行語というものは、本当に「新しい日本語」になっているか、「流行して人々の日常会話の中に定着」して「組み込まれて使用」されているか、つまり「言葉としての定着」があるかどうか? という観点からみる必要があるはずなのです。逆に、ある一部のコミュニティやごく一部の人だけが使っている言葉を「流行語」と言ってしまっても良いのだろうか、という観点から見ると、もうかなり前からこの「新語・流行語大賞」は、世の中で起こっている事象や事件、新しい商品やサービスやシステムの言葉を列挙しはするものの、元来の意味における「新語」や「流行語」=「新しい日本語」を発信する主体には、結果としてなれていない、と結論づけるほかはありません。(つづく)