<リテラシー向上ブログ> 匿名記者が実名記者を批判する不可解

ジャーナリストの池上彰氏が、あるテレビ番組内で「自民党の政治家の失言などで内閣がピンチになるたびに北朝鮮からミサイルが発射されているのは奇妙な符号か?」というような趣旨で発言したことに対して、「陰謀論だ」「池上彰はジャーナリスト失格」などとネット上で物議を醸している、という記事がこれまたネットのニュースサイトに掲載されました。

前々から、ネットで話題、とかいう記事をネットニュースで出すことを気持ち悪く感じてはいましたが…いやそもそもこれってニュースサイトなの? という疑問も生じますが、ヤフーのトップに出れば、それはもう立派なニュースと見なすほかはないのです。ただし、そのネット上の物議の内容自体が保守丸出しなので、「偏った」見解であることには間違いありませんが。

その中で、「新聞社の政治部記者」という匿名の記者らしき人が「そんな陰謀論を披露するなんて、池上さんも晩節を汚しましたね」と批判するコメントを寄せました。いや待ってください。いかにネットの記事といえど、特定の実在の人物を名指しで批判するのであれば、しかもそれが本当に新聞社の記者だというならば、あなたこそ自分の名前を実名で公表した上でコメントをするべきではないの? と強く疑問を感じました。

まさにこれこそが「記事(等)を目にした際の、私たちひとりひとりのリテラシー」が問われるひとつのケーススタディであろうと思います。

個人的には、実際にこの番組を見ていたときに、この池上氏の発言は「政治家の不祥事が起こっているのにそれをろくに報道も糾弾もせず、ミサイル発射ばかりを取り上げて国民の不安を煽り、その不安を糧に視聴率や発行部数を稼ごうとする既存メディアに対する痛烈な皮肉」なのだな、と受け取りました。もしくは、池上氏はそこまで踏み込んだ発言(現在の大手メディアへの批判)をしたのかもしれませんが、テレビ局の自主規制や得意の忖度でその部分は削除した可能性さえあるかもしれない、とまで想像しました。

リテラシー自体にはおそらく正解はないでしょう。どのように考えても人の自由といえば自由です。しかし、こうして自分の頭で想像してみる、前提を疑ってみる、ということこそがリテラシーを維持するための基本姿勢であれば、書かれたり耳にしたり目にしたものをそのまま受け取ってしまうなどという状態は、平たくいえばリテラシーのレベルはそれほど高くはありません。つまりこの記事を書いた記者(?)もコメントを寄せた新聞記者(?)も、相当にリテラシーのレベルは低い、と言って差し支えないでしょう。

そうであれば、読者である私たちがリテラシーを維持・向上させなければならないのは言うまでもないことです。

まず、新聞社で政治部の記者をやっている人ならば、全てのことを疑って、本当のことは何か、それが100%は明らかにならないまでも、できる限りの取材をして、読者に限りなく真実に近い話を届けるのが役割であるはずです。ですからこのネットニュースから依頼を受け、どうしてもコメントを出したかったのであれば、せめて池上氏本人に真意を問う(取材し)てからコメントを出すべきで、匿名で個人の感想を他の媒体に垂れ流すなど、記者としてはあってはならないことだし、全く信用できない記者だなー、と感じることができます。

こうした「この記事への疑いの目」は、とどまることがありません。

そもそも政治部の記者は、こんなコメントなど寄せてはいないのかも知れない(架空のコメントの可能性)。

または、朝日新聞にダメージを与えたい保守系のこの記事の記者が、過去に池上氏と因縁があったのは朝日だから新聞社と書けばみんな勝手にどうせ朝日の記者だろうと思ってくれると考えてまったくの架空コメントを載せたのかも知れない(架空のコメントの可能性)。

さらにもしくは、新聞社の政治部といっても地方紙まで含めたらそういうことを言う人はいるかも知れない(どうやって見つけたのかはわからないけれど…本当に取材先を見つけてきた可能性)。

もっともっと突き詰めれば、この政治部の記者は当該番組は見ていなくて、でもこのネット記事を書く記者から水を向けられて「もしそう言うことを池上さんが言ったのであれば、晩節を汚したことになります」としか言っていないものを膨らまされてしまっただけなのかも知れない(本当に言ったことではあるが、前後関係が歪められている可能性)とか、いくらでもこのネット記事に突っ込むことは可能です。

こんな考え方は、考え始めたらそれはもうキリがないことで意味がない気もするのですが、リテラシーを保っていたい、という願望を持ち続ける限りにおいては、そういう疑惑は常に持ち合わせておかなければならないのです。

もちろんこのことの背景には、全面的に池上氏を信頼している、ということはあります。池上氏のジャーナリストとしての信頼感がなければ考えつかないことかも知れません。しかし、過去の彼の発言や取材したもの、書いたものが、自分自身にとってリテラシー力を向上させるのに役立っている、という感覚があるからそう考えるので、保守系の人にとってまた別のリテラシー向上の契機があったのなら、それを根拠にこの記事をどう受け取るかということもまた自由だとは思います。

ということで、このブログでは、社会における「リテラシー向上」を目指して、当面の間、リテラシーをテーマに展開していく予定です。おそらく、かなり不毛です。なぜならネット上の反応を見て、リテラシーを向上させよう、と考えるのは不毛以外の何ものでもないからです。しかし、人々や社会のリテラシー向上は全PR業界的に確実に現在の課題であるはずですし、またメディアにとっても課題であり、それはもう現在のこの社会の課題でもあるわけです。

これまでも書いたり書かなかったりのブログですが、書くとすればこのテーマになる、不毛だとしてもやる、ということだけははっきり宣言させていただいて、これからも続けていきます。