<リテラシー向上ブログ> メディアの無意識な言葉選びを見破る

「リテラシー」や「メディアリテラシー」のことを考えている最中にすぐさまぶち当たるのは、言葉は大げさながら、メディアの「印象操作」というものについてです。メディアは印象操作をするもの、と言ってしまえばそれまでですが、無意識レベルで、日常的に、いともたやすく印象操作を行っている、ということには注意を払っておきたいと思っています。

そして、いかに印象操作されずに、印象ではなく事実を見極めようとするかという、ある意味でこれは「闘い」のようなものでもあると考えています。

例えば、ハワイ島の噴火について。

地元住民は、ハワイ島は火山の島でありキラウエアは活火山である、ということは百も承知でそこに住んでいるはずです(というより、そもそも火山活動はずっと継続していたわけで、それが観光資源にもなっていたわけです。富士山を抱える日本人も本当は同じはずですが…)。ところがメディアは、外部から転居してきたような、ハワイ島が活火山であることすら認識がなさそうなサーファーみたいな人にコメントを取り、住民に甚大な被害をもたらす恐怖の大災害、であるかのように報じます。

実際に確かにその影響による被害は甚大なものですが、噴火自体は自然現象のひとつであり、人間にはいかんともしがたく、しかもハワイ島に限れば、そうした噴火活動が経常的にあることは理解した上で住まなければなりませんので、あまり過剰にその噴火の状況を「深刻な被害」などと表現するのは「印象操作のしすぎ」ではないかと感じます。繰り返しますが、ハワイ島の観光資源のひとつがこの活火山であるわけなので、それがあたかも人々を恐怖に陥れる大災害、と報道してしまうのはいかがなものか、元来の住人はそれを本当に望んでいるのか、という視点を持つ、ということです。

ニュースを見ているとこうした、本来なら事実の報道にとどめるべきであるはずのことがらを、ありとあらゆる言葉や映像表現や編集を用いて、恣意的に視聴者や読者をある方向に誘おうとする意図を感じます。とはいえ「だまされないゾ!」とか、言いたいわけではありません。彼らも騙しているわけではないと思っています。ただ、事象は事象、事実は事実として認識し、そこに付随してくるメディアの表現については注意深く観察する必要がある。そういう意識・感覚は常に持ちあわせておかないと、自分で物事を考える能力が衰えてしまいそうなので、ということです。

個人的にとても気になっている、これらの代表的な表現に「閑静な住宅街」というものがあります。

どこかの住宅街(住宅地)で、何らかの事件が起こった際や、ちょっとした店舗の紹介などの際、メディアはいともたやすく「こちらの閑静な住宅街で(住宅街には)」という言葉を使います。例えば天気予報で「明日は良いお天気になるでしょう〜」と言うときと同じ程度の、ほぼ無意識レベルで使えてしまっている言葉として。いや、別にそれくらい良いのでは、と思う方もいるでしょう。しかしこれは、言葉遣いを問題視しているのではなく、そうした言葉や表現を安易に使えてしまう側の意識が「無」なのではないか、という問題意識なのです。

皆さんはそうした際に、この人(記者、レポーター、アナウンサー、ナレーション原稿を書いた人等々)は、なぜその住宅街が「閑静である」ということを知っているのだろうか、と考えたことはあるでしょうか? 

その人は、数時間その場に滞在したり、実際に何日か暮らしてみて、または過去に住んだことがあって、本当に静かな場所だと確信したまたは知っているからそう発言したのでしょうか。それとも住人に確認したのでしょうか。

おそらく、多くの場合、その言葉を発している人は、その住宅街のことなど1ミリも知らないのでは、と思います。事件が起こったから、その日初めてそこに足を踏み入れたか、住宅街の中にある店舗の取材でその瞬間に初めて訪れたのではないでしょうか。もちろん、何人かは本当にその住宅街が「閑静である」と知っているのかもしれませんが、それにしても、なんの基準を用いて、どう判断して「閑静」と言っているのかはどのみち気になります。

しかし、もしそこが「閑静ではない住宅街」だったら?

これまで、数多くの報道やレポートで「閑静な住宅街」という表現が使われてきましたが、昼間の取材時は静かだったとしても、朝や夕方は通勤通学する人々でものすごく賑やかで騒がしいかもしれない。逆に朝晩は静かだが日中はうるさいかもしれない。その取材場所周辺は静かでも、少し離れた裏山には産業廃棄物処理場があって重機の音がとてもうるさいかもしれない。もしかしたら取材時は静かでも、実は近隣の基地から飛来する軍用機の騒音に住人は悩まされているかもしれない。外部の者には認識できなくても、住人には何がしかの許しがたい騒がしさがあって、誰一人、その場所を閑静だとは感じていないかもしれない。

「他の可能性があるかもしれない」という視点がメディアにない、と考えることは、ある種の恐怖ですらあります。閑静な住宅街、という言葉を選択して使用する前に、一度だけで良いからそこが本当に閑静と断言できるのかどうか確認してほしい、と毎回思います。確認する方法があるならば…ですが。なのでむしろ逆で、おそらく確認できないであろうそうした表現は、やはり安易に使うべきではない、ということになります。

別に、普通に「この住宅街で事件が起きた」で良いはずです。なぜ、ちょっとした規模の住宅街に取材が入ると、その取材者はほぼ100%の確率でその場所のことを「閑静な住宅街」と言うのかという方が、むしろ謎ですらあります。こういう場合にはこの定型句を使わないといけない、とあたかも思い込んでいるかのような…。しかし記者は、自分がそう感じたからそう表現したまで、と言い切れる立場の人たちなので、だからこそ安易な表現を多用すべきではないはずです。

視聴者や読者にはどうせそこまでのこと(そこが本当に閑静かどうか)はわかりっこないし、どうでもいいだろう。だから慣用句としてテキトーに言っておけばいい。なんならウチら取材で住人に迷惑かけてるからその配慮として視聴者や読者がここを「閑静」と思ってくれたらラッキーじゃね? という、そんな思惑さえ透けて見えてくるようです(類義語に「しめやかに葬儀が執り行われ」があります。賑やかな葬儀、はある意味ニュースかもしれませんが、ほとんどの葬儀はしめやかなので、わざわざニュースで言うような慣用句でもないと思います)。

言葉だけでなく映像や画像でも同様です。以前までは、北朝鮮関係の不安要素に関するニュースでは常に、金正恩委員長の顔はいつも豪快な笑顔かちょっと不機嫌な顔でした。これもメディアの印象操作で、ニュースの内容と金委員長の発言が直接関係なくてもこの笑顔が出てきて「なんかこいつ悪い奴だな!」と思わせようとする。今は、真面目な顔か温和な笑顔にすっかり変わりました(わかりやすい!)。

メディアでは、本当に日々、報道のレベルであってもこうした無意識のワード選定や印象操作が行われています。私たちはこういうものにいともたやすく与してはならない、と思います。少なくともニュース(情報)を見る・読むとき、事実の部分とメディア側の脚色の部分を見分ける訓練はしておきたい、と胸に刻みます。

しかしこれは、ある意味、広報担当者にとっての反面教師でもあるのかもしれません。

広報は「事実」を伝えることが大原則です。広報は印象操作をする仕事、と思っている人もいるようですが、それはあくまでも事実に基づいた上での話です。事実を捻じ曲げたり、事実を未確認なまま印象だけを構築することは広報の役割としては誤りです。大事なことなので繰り返しますが、事実かどうかを確認せず、思い込みだけで印象を作り上げようとするのは広報ではありません。

少し拡大解釈になりますが、昨今流行りの「(食品等の)スモールチェンジ」などもそれに該当しそうです。本当なら前の製品より「小さく」なっているわけですから、もはや別の製品としてリリースすべき案件だと個人的には思っていますが、まずそんなお知らせは見たことがありません(結構あるようでしたらごめんなさい)。従来品と同じパッケージや味にしておいて、あたかも前から変わってませんよという素振りでいながら、その実は小さくなっているのに黙ったままなのだとしたら…。これもある意味、印象操作の一例になるのかもしれません。「小さくしましたよ」ということはぜひアナウンスいただきたく、ご一考いただきたいものです。