差別的な扱いから気づく逆差別①:銭湯の脱衣場の清掃
個人的な意見丸出しになりますが、日本の、特に地方のスーパー銭湯などで脱衣場を清掃する方に女性が多いことがとても気になります。逆は絶対にあり得ないはずで(確認したことはないですが多分ないと思います)、男性は素っ裸を女性に見られても「男なのだから我慢しろ」とか「男はそういうことを気にしない生き物」と言われているようで「全員がそうではないんだがなぁ」と思ってしまいます。というより、単純に「清掃している女性に失礼では?」と思うのですが。
以前勤務していた外資系のダイバーシティ推進企業では、トイレの清掃員は男性用は男性が、女性用は女性がしていましたが、街中の商業ビルや駅構内などではいまだに男性用トイレでも女性が清掃している場合が圧倒的に多く、これもある種の暴力なんだけど誰か気づいてくれないものかなぁ、と思います。
やはり、前述したように、そういう場に女性がいることが男性にとって嫌なことであるとかの前に、女性(しかも清掃員には中高年の女性が多いですが)だったら男性用のトイレや男性が全裸になる脱衣場の清掃をさせても良い、という発想が根底にありそうで、だとすればこれは立派な性差別です(もちろん、本人が同意しているのだから良い。おばちゃんは若い男の裸が見れて嬉しい! それより雇用の促進だ! といった意見もあるとは思いますが、ここで主張したいのはそのレベルの話ではないので置いておきます)。人それぞれにとって「不快なものは不快」であるべきで、「男はそんなこと気にしない」との主張も、それは女性の意見を含む社会環境が「男はこうあるべき」と規定していることに多くの男性が無条件に従わされているだけです。
アメリカでは男性、というか男の子は、それこそ生まれた時から「男は強くなければならない」という躾(洗脳?)を主に父親から受けるために、思春期も含めてずっと「強い男」でいつづけなければならず、だからやたらとマッチョな肉体を作り上げるし、たとえ母親が死んでも泣いてはいけないし、ひどいときにはその身内の死を友人にも言えない人がいるんだとか(言ったら弱い人間だと思われるから、だそうです)。料理など女子がするようなことは興味があっても我慢しなければならず、男はひたすら「Be a man」と言われ続けます。しかしこれが今では一部で問題視され始めているようで、DV被害者の40%は男性との主張同様に、これまでなら顕在化しなかったデータが、男女差の垣根がなくなりつつある現在にようやく顕在化してきています。しかしそうであれば、やはり脱衣場の裸の男性も、そこを掃除する女性も「嫌なのであれば嫌」と言っても良いのかもしれません。
→ 「男のくせに」と言う女性や、「女のくせに」と言う男性は、何らかのコンプレックス意識(被害妄想)を心の裡に抱えているのではと推察されます。基本形は、相手に対する僻みや妬みなどの負の感情があることです。結婚・出産・育児にまつわる場合、女性が女性を(嫉妬に基づき)攻撃するケースもあります。男性が細かいところに気づいて女性の上司に報告すると「男のくせに細かい」とか「女みたい」と言われたりするのも一例です。
どれほどダイバーシティの制度が整っていても、「らしさ」を強調してくる人がいるならば「多様性」の意味がまったく理解されていない証です。多様性が認められない人は平気で人を差別しますので、まずはそういう人の洗い出しと意識改革のプログラムが必要でしょう。
差別的な扱いから気づく逆差別②:くさい男は女が消臭!
広告の世界、特に「消臭関係」の商品では「男性差別」が半端ないです。
洗濯洗剤や消臭成分入りの柔軟剤や、消臭剤そのもののCMでは「とにかく男は臭いもの」として描かれ、ひたすら消臭されていく姿が描かれます。はっきりと言葉にしない場合でも「臭いもの」として画面に登場するのは、若かったりおじさんだったり、学生だったりサラリーマンだったり見た目は違えどひたすら男性です。最近でこそようやく、お母さんも含む家族全員が臭い(笑)という洗濯洗剤のCMが出てきましたがまだ少数例です。もちろんここには、この手の消費財の購買層の大多数が女性で、女性をターゲットとする以上そういうメッセージでないとモノが売れない、という(過去の)データがあるのでしょう。そしてもちろん、女性に嫌われたくなければ、男性は自分で体臭の管理をせよとのメッセージも込められているに違いありません。
しかしこうしたマーケティング戦略はもう古くはないでしょうか? 今どき、男性でも普通に洗剤だって消臭剤だって自分で買います。人からの評価なんかよりも、自分で自分のにおいが気になって消そうと考える男性も多いです。夕方、スーパーマーケットに買い物に行ってみれば、男性の買い物客がゴロゴロいることはすぐにわかります。いつまでも「買い物するのは女性だけ」といういつの時代のものかよくわからないデータにすがっているのも、ある意味では女性への決めつけが色濃く残っている証かもしれません(そしてその決めつけは簡単に差別にもつながります)。
モノを買わせようとしたり、何かのメッセージを伝えようとするなら、過去のプロファイルはさっさと捨て、自分自身の足で出かけて目で見て確かめて自分で考えるべきです。でなければ安易な男女差を背景にしたマーケティングやメッセージ発信はなくならず、「ウチの会社はダイバーシティの意識が低い」とかぼやきながら、無意識のうちに性差別につながるメッセージ発信を続けることになりかねません。
→ そうはいっても男女間では体力差などがあるのも事実です。ですから重いモノを男性が運び、女性がお茶を入れることはあっても良いのかもしれません。問題なのはそれが固定化されることであって、重いモノを運べる女性がいるのも、お茶を入れるのが得意な男性がいるのも当たり前、という職場が当たり前になるべきです。
余談ですが、類似の固定概念として、高齢者はネットやスマホが使えない、というものがありますが、今ではもう通用しないかもしれません。料理や家事は女性の役割というのも同じで、それを変えていく、つまり、男性に家事をさせるとか、高齢者にIT機器を使わせるという概念を浸透させていくことにこそ、今のマーケティングやPRが果たすべき役割があると思います。
果たして、ダイバーシティ推進を外部に表明できるのか?
全体的に「男性の被害」のような話に寄ってしまいましたが、実際にこれからのダイバーシティ推進企業では「男は男らしく」という概念も排除していくべきいという痛切な思いがあります。男らしさを求める組織は女らしさも求めるわけで、女性差別の廃止や女性活用の推進を掲げるなら、男性性を規定することも排除していかなければ意味がないはずなのです。また、男性の被害を考察することで、女性差別の根強さにも気づくことができました。
類似の問題点に「ブラック企業」という呼称があります。こちらは構造が複雑なためここでは触れませんが、視点を置く場所で判断は180度変わることの代表例ということだけはいえます。経営者や一部の社員は1ミリもブラックだと思っていないのに、他の社員がそう思ってしまったらそれでブラックになったりもします。最近では社員ではない人間までが、別の会社をブラック呼ばわりしたりしており、これなどは完全に決めつけによる差別に関わる類似問題だと思います(あの会社やあの人は◯◯に違いない、だから◯◯(良くないこと)をしても良い、などの)。
自社が「ダイバーシティ推進企業」であるかどうかという判断も同様で、経営層や人事部門がそれを表明・標榜したところで、実際に働く人がそう感じていなければ、それは「無意味」もしくは「形骸化」または「嘘」です。厚労省のナントカ賞をとったとか、そんなことはどうしようもなく瑣末なことで、一番大事なことは「組織の一員である広報スタッフのあなたがどう感じているか」にかかっています。
「ダイバーシティの推進」を外部に表明する立場である以上、嘘はつけないはずなので、だとしたら一度は総点検をしなければならないでしょう。そのためにはまず「そもそもウチの組織におけるダイバーシティの理念やプログラムって何がしたいんだっけ?」と疑ってかかることから始めるしかありません。そぐわない実態の例は山ほどあるはずですから、調べたり報告してもらうプロセスも必要になります。そうして、差別が認められるなら確実にそれは解消しなければなりませんし、制度もさらに改善するよう人事部門などに働きかけていかなければなりません。そうした「動き」をしていくことも、外部に発表する立場の広報部門の責務なのではないでしょうか。
(了)