【広報の可能性を考える】広報は謝罪の時だけ出てくる部署ではない①

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補足: 今回のタイトルは当初「【危機管理対応のCase Study②】それ、広報が謝るんですか? <花見で場所取り問題>」としていたのですが、このケースで広報が謝ることはあまりに明らかでしたし、奇をてらいすぎるのもな…ということでタイトルを変更しました。これはこれで直球すぎですが、多くの広報担当の方のご参考にしていただけたらとの思い一心で、こちらを決定稿としてみました。


  • 社名を明らかにして問題行動を起こす人たち

3月下旬に、某建設会社の社員が自分たちの花見のために、横浜市内の公園を広範囲かつ5日間にわたって占有(場所取り)しようとしたと非難が集まり、同社の広報が謝罪するという出来事がありました。同社が直接名指しで非難された理由は、当該社員たちが場所取りのためのブルーシートにわざわざ社名を明記していたからでした。

広報が謝罪するのにもいろいろなケースがある中、ネットで炎上したために仕方なく謝罪(したように見える)というのは最悪の部類で、これはinternet_enjou熊本地震の際に、混乱する街中のガソリンスタンドで行列に割り込み中継車を給油した関西テレビと完全に同レベルであり、もう「残念」という以外に言葉が見つかりません。そもそも広報はほとんどの場合、社員(とか系列会社とか下請けの会社など)がやったことで謝罪しなければならないわけで、その心境を慮っての「残念」という意味でもあります。

しかし一方で、実はこれら「残念な謝罪の例」には、ある共通事項が存在していることに気づきます。それはいたってシンプルなことですが、当該社員が、自分の所属する会社名を掲示した状態で社会的に問題とされる行動を起こしているということです。

とはいえ花見の例では、ひとりで場所取りしていたらおそらく何の問題にもならなかったと思われます。しかし、職場の仲間内(集団)で花見の場所取りを企図して、そこにどのような効能を期待したのかは理解に苦しみますが…確保しようとするスペースにわざわざ自社名を掲示していたわけですから、これはもう「何かあればクレームを入れてください」と言っているようなものです。百歩譲って「場所取りのマナーとして社名を示した」というような言い訳があったとしても、社名を掲示するということは、その時点で第三者は「会社の行事」と見なしますので、途端に「(マナーが良いとは感じずに)非常識な行動」に映るのです(というか、もしもマナーというならば幹事の個人名で良かったはずです)。社名を掲示することは会社の名前を背負うということでもあり、決して遊びの延長ですべきことではないのです。

  • 社員の良くない行動=謝罪で有名になってどうするのか

このような例は、スーツに社章(バッジ)をつけたまま電車内等で大声で騒いだり、マナー違反をする社員にも共通します。本来であれば、社章をつけるということは会社の看板を背負って歩いているようなもので、ただでさえ組織名が人目に触れている状態なのですから、マナーを無理やり良くすることはあってもその逆の行動はとりにくいはずなのです(もちろん、スーツに社章をつけていなければ電車や街なかで大声で騒いで良いという意味ではありません)。

そもそも今回のケースでも、花見のメンバーの中に、自社名を公表して場所取りをすることに違和感を感じる人がひとりもいなかったのか? ということはとても気になります。または、違和感を抱く人は何人かいたけれど言い出せる雰囲気がそのグループ内にはなく空気を読んで黙っていたのか。果ては、単純に会社への不満を発散(嫌がらせ的なことを)したかっただけなのか…。花見を前に気分が高揚しただけかもしれませんし、単なる集団心理なのか、さすがに気は引けたけれど個人で責任も追いたくないし社名でごまかしとけということなのか、本当のところはわかりませんが。

いずれにせよ冒頭の二つの事案は、社員ひとりひとりの「その会社の社員である」ということへの意識の問題が浮き彫りとなるものです。ではその「意識」とは何か? 自分の所属する組織名を人目に触れさせながら目立つ行動をとる人たちの意識の背景には、自己顕示欲(自分はこんな会社に勤めている)のようなものは含まれてはいなかったでしょうか。

しかしもしその自己顕示欲が背景にあるのだとすると、これらの事例は一部の社員が社会(と会社)に迷惑をかけた事例というよりも、社員が自分の勤める会社名を誇示することで他者を押さえつけようとした事例ということになってしまいます。有名なのは会社の方なのに社員がどこかで勘違いをし始める、ということはよくある話かもしれませんが、そんな理由で社員に問題を起こされて、その度に広報が謝罪して社名が露出するなどという事態は、少しでも避けていかなければなりません。会社が自らの存在を社会に伝えるときというのは、立案された戦略に伴って行われる広報の仕事を通じてなされるべきであって、決して社員の肥大化した意識によって引き起こされる問題発生時であってはならないのです。であるならば、もはやこの手の事例を防ぐには「広報が社員の意識を変えていく」以外に手立てはないのかもしれません。(②へ続く)